11月11日の内容報告②

11月11日の内容報告が大量になってしまったので、今週は続きになります。ちなみに、ゼミは休みでした。

では内容に入ります。先週からの続きで、Aグループの発表、「古谷実著・マンガ『ヒミズ』(講談社)から読み取れる若者論についてレポートする」です。



■お金について
ヒミズでお金について語られている場面があったので、お金について考えてみたい。

まずはヒミズの1シーンを要約してみた。

夜野はお金持ちになりたいということで、赤田の従兄弟きいちに漫画を教えてもらうために会いにいく。しかし彼は「金のためではなくいい作品を作るために漫画を描いている」といい「世の中金と思っている人は、どうも…」という。これに対して夜野は「世の中は金だろうが!」と言い、さらに「金で買えないものは何もない」と言い放つ。それに対してきいちは、「人の魂だけは、絶対に買えない」という。夜野を追ってきた住田はこれに、「魂だって買える」と言い切り、きいちと住田は取っ組み合いになる。

さて、皆さんはお金が好きですか? もし目の前に、ぽんっと一千万円出されたらどうだろう? こんなものは受け取れないと拒否できますか? 大半の人間は、まず受け取ってしまうだろう。なぜなら人間は、めっぽうお金に弱い生き物になってしまったからである。お金の魔力とでもいうのだろうか、それは途方もない力を秘めている。お金のためなら人間は何をしでかすかわからない。なぜ、人間はこうまでお金に弱い生き物になってしまったのか。
まずお金とはなんであろう。私は、お金とは現代に実在する魔法であると考える。欲しいものが手に入り、やりたいことを可能にする。冒頭にも書いた魂や誇りだって買える。魂や誇りを構成する、ごたいそうな服を得るにも、ご立派な体を維持する食事も、お金がなければどうにもならないからだ。それだけではなく、どれだけのお金を持っているか、どのようにお金を稼いでいるかが、世間の信頼にも繋がっている。幸福も平穏も愛も、全ては金次第である。まさに、どんな願いもかなえてくれる万能の魔法ではないだろうか。
そもそも生きることは経済活動である。自分の時間や能力、心と体の資源を売って、他人の資源を買う。ただ、それだけのことだ。逆にいえば、経済活動をしていない人間は、社会的に存在していないことになる。だからこそ人間は、利益につながらない言動をしない。利益のない言動は相対的に損であり、続ければ破滅するからだ。
昔は、お金などなくても物々交換でことは済んでいた。しかし、幸か不幸か物が揃い、食べ物も充実してきた今になって、生活にお金がかかるようになってしまった。例えば、私たちが普段から身に着けている衣服、普段から食べている食事、普段から住み続けている住居、普段利用している医療サービス、どれをとっても全てはお金がなければ手に入れられないものである。
本来、お金とは、人生を送る上での経済道具に過ぎない。確かにお金はあればあるほどそれに越したことはない。しかし、決して人生の目的ではないはずだ。お金を貯めるだけのために生まれてきた人などいないだろう。必ず他の目的があるはずである。しかし、人間一端お金に目がくらんでしまうと、それが目的になってしまう。たかが経済の道具にやすやすと囚われてしまうのだ。なぜか? それはお金が今の世の中において絶対的な力を持っているからである。さらに、人間は欲深い生き物である。もっときれいな衣服を、もっと美味しい食べ物を、もっと大きな住居を、際限なく求める。それを可能にするのがお金なのである。そして、人間にとってどこまでもお金が生命線なのだ。
お金は確かに必要である。しかし、お金を使う人の心の方も大切なのだ。たかが経済の道具に振り回されてはならない。どうやってお金を集めるか、そしてその集めたお金をいかに有効に使うか。皆さんもこの大事な問題をよく考えてみて欲しい。人生のうえで必要なこのお金をいかに集め、使うかこそが人生に大切なことなのだから。
本当はお金より心が大切だといいのだが、しかし、そんな甘いこと言っていられるような世界では、残念ながらもうなくなってしまったと私は考える。

質問
自分は、お金で買えないものは何もないと書いてきたが皆さんはどう思いますか?
皆さんは自分でお金に振り回されていると思いますか?


まず、この質問に対してのAグループの考えが発表されました。
「お金は絶対に必要だ」「お金で幸せは買えないというけれど、それは、その人の心の持ちようによって変わってくる」
この考えに対する意見や質問が多く出ました。
「お金を稼げない人は、地位が低いのか」「どうお金を稼いでいるかは重要な問題だ」など
時間の都合上、途中で切り上げとなったこの討論ですが。今後、深いところまで話をしていける気がします。



■若者について考える

希望を持てない若者
住田は、未来の可能性を秘めているのに、自分はどうしようもないやつだと決めつけ、自ら悪いほうへと進んでいっているように見えないだろうか。
ここでは住田が出会った人々との会話より、住田という少年、そして彼を現代の若者に置き換えて考えていきたい。

住田は偶然再会したヤクザの男に、自分が1年という期間の中で定め悪いやつを探し抹殺する事を決意し、そのため悪いやつを探し、町を練り歩く日々を続けているということを語る。その後のヤクザの男の助言と住田の反応は印象的である。


ヤクザ  お前は今“病気”だ
  ・・・お前には腐るほど道があるのに勝手に自分を追い込んでる・・・
  周りが見えなくなって・・・一番ヤバそうな道を自ら選んでる
  しかも夜が明けるのを気楽に待ってりゃいいのに・・・
  暗闇の中をはいずりまわりパニック起こして死にかけてる・・・
  生きてりゃ10年後によ・・・「あ〜〜・・・あん時のオレはヤバかったな〜」て笑える話だぜ・・・
      まあ生きればの話だけど・・・
……………………………………………
      最後にもう一度だけ言うぞ
      死にたきゃ勝手に死ね!
      でもお前は今確実に“病気”だ・・・・以上!
      病人はまず病院に行くもんだ・・・

ヤクザが去った後の住田の言葉

 住田  ケッ・・・何が気楽に待てだ・・・
     できればとっくにやってるよ
     ・・・何が10年後に笑える話だ・・・
     3日先も目に浮かばねぇよ
     ・・・夜が明けるのをじっと待ってて・・・何とかうまくやりすごそうと思ってたのに・・・
     ・・・こんなことになったんだよ

その後、雪が降ってきて住田は子どものようにはしゃぐ。しかし、怪物が出てきて次のシーンでは元のふさぎこんだような住田に戻っている。



次に茶沢が住田へ自首を勧めるシーンの会話も見てみよう。

茶沢  いい加減自首しなよ
    ・・・それで罪をつぐなった後にやりたい事をやればいいじゃない・・・
    世のタメ人のタメもいいけど・・・まずは何より自分のタメにさ・・・
    君は今自分で決めたルールにがんじがらめになってるだけだよ・・・
    他人から見ると良くわかるの・・・・
    どう考えても自首しかないと思うし・・・もっともっと先の事とかを考えないと・・・
住田  ・・・そんな事わかってるよ・・・・・けど
茶沢  けどじゃないの!
    住田君はもう価値観を変えざるをえないの
    一度 人生にケチのついた人たちは自分を捨ててでも頑張って変えていくしかないと思う・・・
    これはほとんど義務だよ
住田  ・・・それは要するに・・・
    人殺しや弱った人間には自分の意思をつらぬく資格すらないって事?      
茶沢  厳しく言えばそう
    泣いてでも人に助けを求めるぐらいの根性見せなきゃね
住田  ケツの穴を虫メガネで見られる思いをして・・・合いもしない価値観を無理に受け入れてでも・・・頑張って生きましょうって事か・・・・
    冗談じゃない・・・誰がそんなことするか!
    そこまでして助けてもらった後に何がある?
    まるでオレの人生の目標は長生きみてーだ
茶沢  そんな屁理屈言わないで!!
    ちょっと住田君!

住田が一人で行ってしまう。そして、その後の住田の心の声

    わかってる
    そんな事はわかってるんだ・・・・

住田の独り言
住田  ・・・・・・・バカがバカを殺す・・・
    それでいいじゃないか・・・
 

ヤクザの言葉も、茶沢の言葉も実に希望に満ちているのに、なぜその道を選べなかったのか。住田はなぜ「バカがバカを殺す、それでいいじゃないか」と自分を割り切ってしまったのか。斎藤環「負けた」教の信者たちニート・ひきこもり社会論』の中で、斎藤は若者に関して興味深い考えを示している。以下引用

現時点での、私の推測はこうだ。彼らは、負けたと思いこむことにおいて、自らのプライドを温存しているのではないか。現状の自分を肯定する身振り、すなわち自信を持って自己主張することは、批判のリスクにまっさきにさらされてしまう。むしろ現状を否定することで、より高い理念の側にプライドを確保することが、彼らが「正気」でいられる唯一の手段なのではないか。その意味では、「負けたと思いこむ」こともまた、ナルシズムの産物なのだ。「負けていない」と否定することによって、自らの「正気」すら手放してしまうのではないかという恐れが、彼らをして「負け」に固執させてしまう。この、あまり過去にも他国にも例のない自己愛の形式を、かりに「自傷的自己愛」と呼ぶことにしたい。(斎藤環「負けた」教の信者たちニート・ひきこもり社会論』より)

質問 皆さんは、「自分ができないやつ」と思い込むことで、他人とのかかわりを避けたり、自分のプライドを守ろうとすることはないだろうか?

ここでは、様々な意見が出ました。例えば、信頼する人から、そっけない態度をとられたときに、自分が悪かったとして、これ以上、信頼する人を傷つけるよりかは、自分も信頼する人を嫌いになってそっけない態度をする。ということがあるという意見。恋人にフラれたとき、本当は、仲直りしたいのに、恋人だった人は自分にはつりあわないとして考える。などの意見が出ました。
次の問題提起も若者論です。


■ 若者について考える

若者の憂鬱な心
 ヒミズでは主人公はほとんど笑顔をみせずに悩んだり落ち込んだりしています。人を殺してしまった後半からならまだしも最初からである。特に将来に対する展望も無くただ平凡であればいいと生きている。極端なくらいに見えるが、実際最近の若者は冷めている、覇気がない、などは身近でもよく耳にする言葉なので、社会の中でそういう希望を持てない若者が増えているようである。いくつかの文献を使ってその状況と解決策を探ってみたい。

1.自己確認型犯罪
時代は物質的欲求不満や性的葛藤から「自己」をめぐる問題が先鋭化しつつあるものとなった。二十一世紀はこの傾向はますます強くなり、「自己の病理の時代」となる。
中でも自己の存在感の薄さ、不安定さ、空虚感、さらには幼児的万能感が大きな問題となってきている。
「自己確認型犯罪」においてはこれらの問題が端的に表れている。つまりは物質的欲求不満や性的葛藤、快楽を求めてというよりも、空虚で、希薄となった自己の存在、空虚な自己、傷ついた幼児的万能感を犯罪によってうめたり、回復することを求めての犯罪が現代型犯罪の主要となっている。(影山任佐『自己を失った少年たち』より)

この自己確認型犯罪というのはヒミズの物語にも当てはまる部分があると思われる。人生を残り1年間と決めて、その中で悪者を殺すという目的を立てる主人公はまさに犯罪によって空虚な自己を満たそうとしているように見える。

2.「自己の病理」の時代、「空虚な自己」の時代
これは非行・犯罪のみならず、現代のさまざまな社会病理現象や日常生活においても大きな影を落としている。
「趣味はただ寝ていること。いつもいつも眠い。ずっと寝ていて、記憶が戻らないといい。普段の生活も、ブラーッと腑抜けで生きているだけです。生きるような喜びなんて、別にない。毎日の生活で一番楽しさを感じるのは、飯を食べているときくらいかな。女の子にも、おしゃれにも関心はない。親友と呼べる友達もいない。でも寂しいとは思わない。だって、自分の気持ちをわかってもらったところで、友達もどうしていいかわからないだろうし、逆に親友から打ち明けられてもうざったい。幼稚園のときは、将来は消防士になりたいと思っていたけど、今の学校にいると、もう夢も希望もなくなって、とりあえず生きているだけで、ただ息をしているだけで十分みたいになってしまう。−中略―そして、自分の考えを言葉ではっきり言える人間は、やがて淘汰されていく」
(『14歳・心の風景』NHK出版を、影山任佐が『自己を失った少年たち』で引用している)

この言葉を見ると14歳とは思えないくらいに、落ち着き、悪く言うと諦めが感じられる。ヒミズの主人公ともある意味では同じような考え方といえるだろう。しかしこれが多くの少年に当てはまるかといえば違う。ただ、こういう若者が増えているのは確かである。社会の発展、情報化が原因というのは良く聞く。しかし、こういう問題は特に日本で深刻なことを、影山任佐が『自己を失った少年たち』の中で、影山が「各国中学2年、高校2年の男女1000人についての2000年7月の国際比較調査、『朝日新聞』2001年8月1日朝刊」について文章化しているので見てみたい。

3.希望を持てない日本の若者
 現代の若者たちは未来への閉塞感が他の諸国以上に強く、未来に希望が持てない若者が日本の中高生では六割にも達し、米、韓、仏国の同世代の若者の六〜八割が希望が持てるとしているのとは著しい対象をなしている(影山任佐『自己を失った少年たち』より)

ではなぜこのようなことが起きているのでしょうか。


「こういった少年は「脱社会化」している。社会というコミュニケーションとは、無関連な場所に尊厳を樹立してしまうのだ」
 「隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざまな異質で多用なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要だ」(宮台真司『脱社会化と少年犯罪』)
この中で筆者は・失敗の推奨・多元的モデルの提示・試行錯誤の支援を提案している。すなわち、一つの優等生的な生き方よりも多くの試行錯誤する生き方が大事だということだろう。確かに日本人はなんでもマニュアル化してしまうところがあるので「免疫のない脆弱な」若者が増えているとも考えることができる。


 「これらの少年たちに共通して欠落しているもの、それは、他者に対する共感とユーモアである。じつを言えば、共感やユーモアなどは人間の精神機能としてはかなり高度、高級なものなのである。苦境にある自己を客観視し、のたうち回る自分を面白、おかしく感じる心の余裕である。それは人間の弱さを許す、認めることにもつながる。」(影山任佐『自己を失った少年たち』より)
 影山は、いまだに昔からの吉本のお笑いなどが受けているのもこういった余裕が現代人には無くなってきているからではと書いている。(その他では勝てない阪神を応援する野球ファンなども「弱さを許し認める」ことにつながるという)
 
 おそらく、まだ考え方はあると思うが、ここに書いた考え方はヒミズのような世界を考えるとき、重要なことだと考える。特に「他者に対する共感とユーモア」というのは人間にとって重要なのではないだろうか。それが生きるうえでの「免疫」を生む事にもなるはずである。失敗したときや落ち込んだときの対処法、つまり免疫がないこと、そして社会から脱してしまうことがヒミズの主人公のような少年の一つの問題ならば、「他者に対する共感とユーモア」というのは彼らの解決策にもなりうるのではないだろうか。

この2つの「若者について考える」の発表者は、これらの事態を、どのくらい問題視しているか。そして、どうやったら解決していけるかを討論したいということだったが、それについてはほとんどできませんでした。

この発表を通じて僕が感じたことは、「他人に共感できる人が少なくなっているのではないか」ということです。例えば、住田が他人のつらさをわかる人であれば、自殺を選ばなかったのではないかとおもいます。他人のつらさを認め、一緒に生きていくという道が現代には必要なのかもしれません。


余談とゼミ+
今回は、自分も発表者で、とても緊張しました。ドキドキドキドキ・・・
いまいちうまく発表できなかったので、今後改善していきます。ゼミ+では、ゼミ運営費用をどう使っていくかを話し合いました。映画を見に行くということにまとまり、来週から準備に追われそうです。
次回のゼミは、夏季レポート講評(夏休みにレポートをみんな書きました)ということで、3人のレポートが講評されます。では、みなさんよい年末を。