11月25日の内容報告

どうも、こんにちは。もう11月もあと少しですね。今週も寒さに負けず、頑張っていきます。
最近、街に出ると、クリスマス色に染まっています。わくわくでドキドキです。ケーキを買うべきか、買わないべきか・・・ 去年は大失敗したので、今年こそ!!!(去年はケーキじゃなく寿司にしたところ食べすぎで何がなんだか)。でも、ここの大学って季節感があまり感じられないです。まあ、大学って何かを学ぶために来る場所だといってしまえばそれまでですが、うーん、僕は大学に何をしに来ているのだろう? 色々な教授の考え方、同じ学生との会話から、様々なことを学んでいっているというのも一つだし、人とのつながりを求めてるのかもしれません。
まあ、こんな話どうでもいいですね。では、内容に入ります。

今回のゼミは、夏季レポート講評ということで、3人のレポートが講評されます。
「ゼミを考える」、「オタクから見るオタク、オタク市場の現状」「死と宗教」 の3つのレポートが今回の内容です。


「ゼミを考える」

ここでは、前期の私たちのゼミを振り返り、より良いゼミを作るにはどうしたらよいか。そもそも、一人一人どのようなことをゼミに期待しているのか。ということを中心に話し合いがされました。
レポート発表者の意見は、このゼミの目標は何なのかをはっきりさせないと、うやむやなまま、時間だけが過ぎていってしまう。だから、目標をはっきりさせて、その部分について話し合うべきだというもの。もう一つは、このゼミでは、積極的に発言する人がいない場合、順番に意見を述べるという形をとることがあるのですが、それはいけないのじゃないか、強迫観念が個人に降りかかっていないかというものでした。
この意見より、一人一人、ゼミに求めるもの、ゼミに関する見方についての発表がありました。内容は以下のとおりです。


・ゼミに求めるものは、問題に対するさまざまな人の意見を聞きたい。つまり、自分に無い意見を取り入れたい。
・誰かの意見を複数で議論して、より発展した考えにしていきたい。
・他の人の意見が聞きたいのだが、意見が出しやすい雰囲気ではない。自分は内気で、意見を言う人が大体決まってしまっている現状ではなかなか意見が出しづらい。だから、順番に意見を出すのも悪くないと思う。
・自分の意見を他人がどう思っているか聞きたい。
・話しやすい雰囲気がほしい。しかし、どうすればいいかはわからない。
・議論の楽しみ方がわからない。だから今は単位をとるためという理由でゼミに来ている。
・一つのテーマについて様々な意見が出るようなテーマ作りにしていきたい。難しくなく、なおかつ議論のできるものがいい。
・ゼミに求めるものはあまり無いが、もっと意見が飛び交えばいいな。
・ゼミで何をやりたいかわからない。討論をどうすればいいかわからない。
・グループで何かをやるという形に後期からしたが、そこで何か活性化していけばいいと思っていた。
・それぞれのやる気の問題じゃないかな。
・せっかくゼミという場所があるので、他ではできないようなまじめな話をしてみたい。

このような意見が出たところで、時間が来てしまいました。今後、より話し合っていく問題です。前期のゼミに対する反省は、確かにできていない部分があります。


「オタクから見るオタク、オタク市場の現状」
ここでは、レポートの内容云々よりも、オタクとは何なのか、オタクに向けられる視線、そして、ネット世界の恐怖について話し合われました。


・オタクとしての趣味がメジャーがマイナーかは本人にとってどうでもいいこと。スポーツ観戦等の趣味とあまり変わらないじゃないか。
・「現実からの逃避」としてオタクのことが語られるが、事件が起きたときにちょうど良い理由として使われていないか。
・なぜオタクを批判してしまうのか、批判する心情というのも読み取っていかなければならないのではないか。
・「自分はオタクです」と言う人は、オタクというのがアイデンティティになっているのではなく、先に言ってしまうことで、自分を守ろうとしている。あとで、気付かれて軽蔑されるよりは、先に自分を知ってもらうほうがいい。そこまで、オタクということが悪いものなのだろうか。というより、オタクとしての概念が肥大しているように感じられる。
・メディアも、オタクの人たちを面白がって特集したり。蔑んだ報道の仕方をしているかもしれない。
・ネット世界の住人とオタクを結びつけるのは、少しやりすぎなような感じがする。しかし、ネットの中で誰かを、面白がってスケープゴートとする人も多いのではないだろうか。

といった、討論がありました。オタクとして見られることで、何かしらのストレス、生きづらさがあるのではないかと実感しました。オタクの人を、現象としてみるのは確かに大事なことだが、そちらへ力を注ぎすぎ、個人として見ていないということもあるのではないでしょうか。


「死と宗教」

ここではまず、死についての考え方が発表されました。呼吸が止まり、心臓が止まったら「死」になるのか。インドに、何分間か心臓を止められる人がいるそうだが、その人は何度も死んでは生き返り、死んでは生き返り、というサイクルをしているのだろうか。そうではないと思う。発表者は、何も考えられなくなったら、それは死ではないのかという意見を前提に、宗教の概念を紹介してくれました。
「寿=同じ状態を維持する能力」、「煖=身体を保つ能力」、「識=神経細胞の能力」。これらを述べた上で、発表者は、植物状態では、生命活動として自立しているのだから生存の存続を援助すべきだが、脳死では「寿」は成立していないから生きているとはみなせないという考えを発言しました。脳死についてどう思っているかという問いは、調べた上で討論してみてもいいんじゃないかという教授からの意見も出ました。
次に、「仮和合(けわごう)」という概念について説明がありました。
「現象している存在とは仮に調和して現象となっているという意味です。「仮」で確かでないものだからいい加減なものかというと、いまこのように現象として動いていることだけが事実だから、そこが尊く大切であり、そこで全力投球するしかない」ということです。
これを聞いて僕が思ったことは、宇宙が誕生して何億年単位のときが流れ、今自分が生きている時間は、たったの一瞬かもしれないが、だからといって何もしないで死ぬのは納得いかないということです。だからこそ、毎日毎日を大切に生きていこうという考えになるのかもしれません。


余談
残りのゼミの活動計画が教授から配られたのですが、数えると後数回でした。しかもチョー内容が濃い(チョーとか使ってみました。若者です)。2005年も終わりに向けて面白くなってきました。皆さんお互いに助け合い、頑張って乗り切っていこうじゃないですか!!
冬になると風邪にならないゼミ長でした。では、また来週お会いしましょう。